2024年、2025年はアメリカテレビドラマ“SHOGUN”が世界の注目を浴び、日本の侍文化を世界の人たちに正しく理解していただいたのではないでしょうか、と同時に日本の歴史上の外国人にも関心が集まっています。
本書は江戸末期から明治初期の激動の時代に外交官として、日本に赴任したイギリス人の旅行記録です。
イギリス人が日本をどう見ていたのか。外人の視点で当時を見れば、どう映るのか興味深い所です。
日本旅行日記1(全2巻)東洋文庫544
著者 アーネスト・サトウ
訳者 庄田元男
1992年1月10日初版 平凡社
アーネスト・サトウのプロフィール
サー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Arnest Mason Satow 1843年6月30日~1929年8月26日)
イギリスの外交官、イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使。
英語名はSatowであるが、日本名の佐藤はあくまで、漢字の当て字である。
・1843年6月30日にロンドン北部ノクラプトンに生まれる。
・ミル・ヒル・スクールに入学し、1859年に首席で卒業する。
・1859年にユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンに進学をする。
・1861年にイギリス外務省に通訳生として、入省する。
・1862年9月6日(文久2年8月15日)にイギリスの駐日公使館の通訳生として、横浜に着任する。
本書が優れている点
アーネスト・サトウは日本を愛し、良く研究し、江戸時代末期から明治初期の日本の大変革期に各地を旅行し、詳しく記録した旅行記です。
明治新政府は天皇制を強く浸透させるために、神道を重視し、廃仏棄釈の風潮を生み出した。
お寺は神社に代わったり、打ち壊したり、の丁度そのころの変化をこの旅行記から読み解くことができます。
また、ダムに沈む前の村の様子がうかがえたりもします。
アーネスト・サトウ氏が訪ねたお寺も今は跡形もなく資料も存在しないものもあります。
アーネスト・サトウは植物にも興味があり、当時の草花や木々の分布を知る上でも大変参考になります。
他に交通、運輸、通信、産業の進化の過渡期であり、新旧入り混じって面白く読み解くことができます。
この旅行記は当時の日本を知る第一級の資料と言えるのではないでしょうか。
アーネスト・サトウの日本滞在期間
・1862年から1883年
・1895年から1900年(駐日公使)
アーネスト・サトウ氏の家族
生涯独身ではあるが、日本に内縁の妻がおり、麴町区(現在の千代田区)に500坪の敷地の家を購入し、家族を住まわせた。子供たちを認知し、経済援助も行った。
サトウ氏は基本的に英国在住だが、最晩年は家族と一緒に暮らしたかったが、病のため果たせなかった。
本書の目次
第一章 富士山で神道を勉強一八七二年 {明治五年} 13
第二章 新緑の大菩薩峠と甲州の変革 一八七七年 {明治十一年} 41
第三章 悪絶・険路の針の木峠と有峰伝説 一八七八年 {明治十一年} 63
第四章 赤岳登山から新潟開港場へ 一八八〇年 {明治十三年} 135
第五章 秘境奈良田から南アルプス発登頂 一八八一年 {明治十四年} 173
アーネスト・サトウの足跡 273
解説 231
本書からの抜粋
(117頁) 裏手の涼しい階上で、一日の疲れから解放されて、休んだ。部屋の床の間には佐久間象山(幕末の思想家、哲学者。近傍の長野県松代の出身である)の筆になる掛け軸がかけてあり、またオランダ人の騎士が婦人に手を差し伸べている古い絵が時代ものの額縁におさまっている。地蔵峠の頂上から町中までは、三時間かかった。…
(131頁) …四軒の旅宿があり、その中の木曾屋に宿泊した。峠の頂上は海抜約五千フィートで宿屋には蚊が全くいなかったが、夕食は品数が乏しく、豪華ではなかった。
八月十一日 和田峠・軽井沢・碓氷峠そして帰京
下諏訪から登る峠道は、二頭立て馬車で簡単に行け、かなり良い道だった。しかしそこから和田へ向かう下りの道は…
(144頁)
五月三十日 善光寺・戸隠神社・飯縄山
人夫はこのつらい旅行にうんざりして私のもとを去って行ったが、彼はたいして役に立たなかったのだからどういうことはない。六時半に出発。歩いて十時十五分には岩田村に到着した。そこでは時計のねじ巻用の鍵を買い、誠(セイ)重亭(ジュウテイ)(立派な旅宿)で昼食をとった。
天気は上々であったが、次第に雲が八ヶ岳や蓼科、浅間の頂上を取り囲むように…
翻訳者プロフィール
庄田元男(しょうだ もとお)
1933年東京都生まれ
・横浜国立大学経済学部卒
・株式会社電発コール・テック取締役(出版当時)
・著書「異人たちの日本アルプス」(日本山書の会)
読者のコメント
(アマゾンレビュー)

翻訳された方が、信州での登場人物の名前の漢字が間違っていて残念。ますや旅館 宮原庄右衛門は私の曽祖父。全般に出てくるアーネストサトウの感じ方や体験が、如何にも読者、私が歩いている様に入り込んでしまう。当時の外国人から見える田舎や、捉え方は想像以上のものだっただろう。
(紀伊国屋書店レビュー)

1877年は富士山麓。 土地所有を認められたのは一部農民で、 零細農民は小作枠内で貧困を強いられた ことをサトウは観察した(17頁上段)。 78年針ノ木峠。 信州上田では絹をつむぐ村人たち(70頁~)。 信州大学繊維学部の原点か。 保福寺経由で松本のコースをあきらめ、 田沢温泉へ(71頁下段)。 あの辺りの青木峠を思い出したが、 あの峠は呪われそうだ。 あのトンネル付近が怪しい。 わたしは翌朝、交通事故で追突されたので、 この辺りの悪霊を疑っている。 野麦峠にも行かれたようだ(110頁~)。2014/04/18 (萬参仟縁)

明治時代の日本、特に地方にはまだ西洋式の施設などほとんどなかっただろうに、20日以上の旅行を何度も続けるサトウ氏のたくましさと足の丈夫さには感服。 (ワッピー)
まとめ
・幕末から明治初期の日本を外国人の視点で観察・記録をした貴重な資料。
・植物の分布も詳しく記載されています。
・日本を愛していたのでしょう。最晩年はイギリスにいながら、病さえなければ日本で家族と暮らしたかったようです。